2012年3月30日金曜日

2012-03-16 - Wasurenasoの日記


クリケット試合で今日101打を記録したインド選手

17日午前7時50分:契約しているコマーシャルの会社(日本の会社も入っています)は17社で一番金持ちなクリケッターだ、ということです。

「日本ではあまり馴染みがない」と勝手に決めて今まで記事にしたことがありませんでしたが、さっきCNNでBREAKING NEWSとして出ましたので、載せます。イギリスで始まった古い競技で、元イギリス植民地では盛んなスポーツです。ゴルフやサッカーの様なお金の掛かるスポーツでないこともインドで盛んに行われる理由のようです。

バングラデシュとの対戦でSachin Tendulkar38歳は100打目を打ちその後もう一打で101打にしました。

クリケット(CRICKET)

Wikipedia日本語版

クリケットの試合風景 ベージュ色の線がピッチ。右側で黒いズボンを着用しているのが審判。

統括団体:国際クリケット評議会

起源:16世紀前半

イングランド

特徴:身体接触

選手数

グラウンド上:11人

男女

カテゴリ:屋外競技

ボール:Cricket ball

クリケット(英: cricket、英語発音: /ˈkrikit/ クリキットゥ)は、半径70メートルほどの広大なフィールド(クリケットではオーヴァル:oval と呼ばれる)で行われる野球に似た球技。全面芝のフィールドでプレイし、試合中にはティータイムもある。その優雅な雰囲気から、別名「紳士のスポーツ」といわれる。イギリスでは同じく紳士のスポーツと呼ばれるラグビーと共に上流階級がたしなむスポーツとされており、イートンなどの名門校の体育ではクリケットは必修種目とされている。

イギリスで発祥したスポーツであるため、インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ジンバブエ、西インド諸島といった英連邦諸国では、ラグビーやサッカーと並び絶大な人気を誇る。日本での知名度はあまり高くないが、100以上の国と地域でクリケットが行われている。

競技人口はサッカーに次ぐ世界第2位ともいわれるが、これはインド人の多くが競技できるだろうという推定に基づくため、正確な競技人口は不明である。日本での競技人口は日本在住外国人を含めておよそ1,500人。

オリンピックでは1900年のパリ大会においてクリケット競技が1回だけ採用されたことがある。

概要

競技で使用されるボール。コルクの芯をウールと皮で巻きつけた作り。非常に硬い。野球の硬球と同程度 女子用140 - 151g 男子用156 - 163g

ウィケットキーパーが使用するグローブ

野球と似たスポーツであり、投手が投げたボールを打者が打ち、打ったボールがフィールドを転がる間に打者が走って点を重ねるゲームである。

一方、野球との相違も多く、代表的な点としては

投手は助走を付けられるが、肘は伸ばして投げなくてはいけない。

打者は投げられたボールがノーバウンドであろうと、ワンバウンドであろうと構わず打つ。

打者は全方位どこに向かって打ってもよい。

後ろに立つ3本の棒(ウィケット、三柱門と書かれている時がある)に投球が当たるとアウト。 3ストライクなどではなく、ウィケットに1球でも投球が当たればアウト。

そのかわりアウトにならなければ、何球でも打者は打てる。

打者はペアを組んで打撃し、投球をいくら見送っても良く、打って走らなくてもいい(但し、得点するためには走る)。

などの違いがある。

また、道具にも違いがあり、バットは棒形ではなく平たいオール型をし、グローブは捕手のみが着用を許され、両手に付けることができる(右の写真を参照)。

ルール

概略

以下ではクリケット・ワールドカップも準拠する50 オーバー制(300球限定)1イニングマッチ、通称ワン・デー・マッチ (one-day match) の概要を説明する。

ゲームは、各11人で構成される2チームがコイントスで先攻と後攻を決め、攻撃側と守備側に交互に分かれて対戦する。プレイフィールドの中央にピッチと呼ばれる縦長の場所があり、20.12メートル離れたその両端に高さ71センチメートルの3本の杭(スタンプ)とそれを上部で繫ぐ梁(ベイル)で構成されるウィケットと呼ばれる柱状のものが刺さっている。

守備側はボールを投げるボウラー(投手)、それを受けるウィケットキーパー(捕手)、その他の9人はフィールダー(野手)としてプレイフィールド各所に配置する。

攻撃側は1番から11番まで打順を決め、1番打者と2番打者がバットを持ちプロテクターをつけて各ウィケットの手前で配置につき、3番打者以降はベンチで成り行きを見守る。片方の打者がアウトになったら、アウトになった打者と交代で順番に従ってフィールドに入り打撃を行う。フィールドに出ている打者 2 人をバッツマンといい、ボウラーと対峙する方のバッツマンをストライカー、ストライカーの反対側でランナーとなるバッツマンをノンストライカーという。

ボウラーは片側のウィケットの後方から助走をつけて、肘を伸ばし、もう片側のウィケット目掛けてワンバウンドさせるようにして投球する。それに対してバッツマンは、アウトにならないようにバットを用いてそれをブロックしたり、ラン(得点)するためにボールを遠くまで打つ。打つ方向は野球と異なり360度どの方向に打っても良い。

バッツマンがボウラーの投球を打った後、2人のバッツマン(ストライカーとノンストライカー)がそれぞれ相方側のウィケットの方向まで走り、双方がウィケットの前に引いてある安全線(ポッピングクリース)に到達すると1ランが入る。バッツマンが打球を遠くまで打ったときは1往復、1往復半、2往復などしても良く、それぞれ2ラン、3ラン、4ランなどと得点が入る。また、プレイフィールドの境界(バウンダリー)を超えてボールが飛んでいった場合は、走らなくても規定の得点が入る。ゴロでバウンダリーを越えた場合は4ラン、飛球であれば6ランである。バッツマンは、走ってもアウトになりそうだと判断した場合は走らなくて良く、またアウトにならない限り投球を見送ってもよい。

バッツマンがアウトになるのは、

1.ボウルド (Bowled):野球でいう見逃しのストライク

2.コート (Caught):野球でいうフライやライナーによるアウト

3.ランアウト (Run Out):野球でいう内野ゴロによるアウト

などの場合である。詳細は以下に記載する。アウトになったバッツマンは次の打順のバッツマンと交替する。野球の場合、1試合に4打席ほど回ってくることが多いが、クリケットの場合、アウトにならない限りいつまで打っていてもよく、逆にアウトになったらその試合ではもう打つことはできない。

ボウラーが6球投球することを1オーバーといい、オーバーになるとボウラーは交替し(2オーバー連続して投げることはできない)、反対側のウィケットから次のボウラーが投球する。 1人のボウラーは総オーバーの5分の1(10オーバー60球)までしか投球できないため、1チームにボウラーは最低5人は必要である。

攻撃側が10人アウトになるか、50オーバー(300球)経過した場合にイニング終了となり、攻守交替する。 先攻後攻それぞれ1イニングずつ攻撃し、ランの多い方が勝利チームとなる。 両者の力関係にもよるが、クリケット・ワールドカップルールでは1イニング200 - 300ラン程度入り、試合時間はティータイム、ランチタイムを含めると6時間以上かかる長丁場である。

チーム構成

クリケットのチームは11人で構成される。試合中に1人までは交代が認められているが、この交代は怪我などの理由による交代のみで、基本的には最初から最後まで同じ11人でプレーする。また交代で入ったものには、ボウリング等に制約があり、他の競技のようにまわりの選手と同様のプレーは行えない。

また、クリケットは他のイギリス発祥のスポーツ・ラグビーと似て、監督(マネージャー)が指示できず、試合中は主将(キャプテン)の指示に従う。そのため、キャプテンシーも重要な試合の勝敗を決める要因となる。

戦術的には、3名 - 4名ほどのボウラー、3名ほどのバッツマン、3 - 4名ほどのオールラウンダーに1人のウィケットキーパーでチームを構成する。その中でもボウラーは速球派なのか、変化球派なのか、バッツマンはハードヒッターなのか、ブロッキングに長けているのか、などのそれぞれの個性によってメンバーを決める必要がある。

攻撃中は1番から11番までのバッツマンがアウトになるまで2人ずつでバッティングを行う。

守備中はボウラー1名、ウィケットキーパー1名とフィールダー9名で守る。

試合のフィールド

試合の中心となるピッチは、長さ20.12mの2つのウィケット間と幅2.64mのエリアである。

試合のルールを変えることにより全体の競技エリアの大きさについては対応が出来る。 長径60m、短径40mほどあれば試合が行えるが、成人が行うならば長径90m、短径70mほどあると良い。 国際大会の規格はこれよりも大きく、長径120m、短径100m程度が必要となる。

試合の進行

試合は2チームの攻撃によって行われる。上記のように大会によりルールは異なるが、1回の攻撃と守備が1イニングとカウントされ、またボウラーが6球投げ1オーバーとカウントされる。このイニングか、オーバーのどちらか、または両方で試合の長さに関する制限がされ、試合時間が決まる。

試合はコイントスなどにより先攻・後攻を決めて試合が始まる。トスから30分程度の後に試合が始まる。それぞれのチームが攻撃(バッティング)と守備(フィールディング)につき、試合が始まる。

バッティング

野球では、コースに対応したスイングをするが、クリケットの場合も同様に違うボールには違うスイングをする。

ドライブ フロントフットドライブ(投球の来た方向に打球が飛ぶ)

バックフットドライブ(投球の来た方向、または体の前に打球が飛ぶ)

プルショット(引っぱり、体の向きの真後ろに飛ばす)

レッググランス(足下への投球を後ろにそらす)

カットショット(体の真正面、野球で言えばスタンドやベンチの方向に打球を飛ばす) レイトカット(打撃点を遅らせ後ろ45度の方向に打球を飛ばす)スウィープショット(足下への遅い球を、ほうきで払うように横に飛ばす)などといった打ち方がある。

また、必ずしも投球を打たなくても良く、ブロックし、投球がウィケットに当たるのを阻止したり、アウトにならないために無理に打たずに見送ったりということがある。

ラン(得点

野球と同様、得点は走った数で数えられる(野球の場合は本塁を踏む=歩きまたは走って帰ってきた数)ので、得点はラン(run/runs)として数えられる。

クリケットの得点は、バッツマンが二人同時にフィールドに入るが、お互いに反対側のウィケット付近(ホッピングクリースのラインをまたぐ)ことで1点と数える。片方のバッツマンのみが入っただけの場合は得点にならず、もう片方が辿り着く前に送球等でウィケットが倒されてしまえば、1点もカウントされない。そして倒された側のウィケットに近かったバッツマンがアウトとなる。

クリケットのランにおいて最大の特徴は、バットを使えることである。体の一部としてバットを考えるため、バットを持って走った方が距離が稼げる。通常は、バットをホッピングクリースのラインに擦るようにしてランを行う。往復する時は、バットの先をラインよりもウィケット側につけて返ることで、早く往復できる。

走者の距離が足りなかった場合、ホッピングクリースのラインよりも手前、またはライン上までしか来なかった場合はランが不成立となる。このような場合に気がつかず、往復してしまっている場合は「ショートラン」と言い、得点がカウントされない。カウントされない得点はショートランとなったもののみを数える(往復する際の初めの時が足りていなかったら、1ラン目のみ無効とされ、帰りの1点はカウントされる)。

通常は上記のように走った数(往復した数)によって得点が異なるが、

4ラン (バッツマンにより打たれたボールが、ワンバウンド以上して転がったままバウンダリーを超えた場合)

5ラン (反則等により、相手側に点数が入る場合 例えば守備側のヘルメット等の道具をフィールドにおき、打球が当たった場合はこれに当たる)

6ラン (打球がノーバウンドのままバウンダリーを超えた場合 1球で取れる通常の最大得点にあたるが理論上は往復し続けた方が得点を取れる)

などのように、あらかじめ決められている得点の入り方も存在する。

クリケットの醍醐味の1つにバッツマン2人のパートナーシップがある。このパートナーシップにより伸ばせるランに違いが出ることも面白い点である。勝手に走ることは許されない。

アウト

審判

バッツマンはアウトになると、次のバッツマンと交代しなければならない。野球と違う点はバッツマンがいくら打ち、いくら得点を取ろうと、アウトになるまでは打ち続けられる点にある。

Laws of Cricket(クリケットのルールブック code 2000)に記載されているアウトを簡単に紹介する。

ボウルド(Bowled (Law 30)):ボウラーの投球によりウィケットが直接倒された場合。1球の見逃しでもアウトとなるのが野球(3球ストライクを見逃すとアウト)との違い。

コウト(Caught (Law 32)):バッツマンの打ったボールがノーバウンドで捕球された場合に宣告される。野球との大きな違いは高さに制限はなく、野球で言うファウルチップもアウトとなる点である。速球投手の場合に打者後方7、8メートルのところへ数名の守備が配置されるのはこのファウルチップのアウトを狙うため。

ランアウト(Run Out (Law 38)):バッツマンが走っている間にボールがウィケットに戻ってきて、送球により、または捕球したフィールダーがボールで触れ、ウィケットが倒された場合。どこまで走れば良いのかといった区切りについてはランの項目を参照のこと。

(以上は上記に記載済み)


場合、X -PACは格闘でした

タイムド・アウト(Timed out (Law 31)):3分以内に前のウィケットが落ちてから(アウトになってから)次のバッツマンが準備し構えない時に、宣告される。これはアンパイアの試合進行義務(Law 21.3)からくる。

ハンドルド・ザ・ボール(Handled the ball (Law 33)):怪我を防ぐためや守備にボールを返す時を除いて、バットを握らない状態でボールに触れた時に反則と見なされアウトとなる。

ヒット・ザ・ボール・トゥワイス(Hit the ball twice (Law 34)):意図的に投球を止めて打つような行為を防ぐもの。同時に守備側の送球を打ってしまうことも禁じている。ブロックやショットの際に流れの中で2度打ちした場合はこの限りでない。また打った後のボールがウィケットに向かって転がるまたは飛んでいる際に、ウィケットを守るために2度打ちすることは許されているが、この場合は走れなくなる(=得点できなくなる)。上記2項目はオブストラクティング・ザ・フィールド(Obstructing the field(Law 37))にも密接に関わる。

ヒット・ウィケット(Hit wicket (Law 35)):守るはずのウィケットを自ら倒してもアウトとなる。ショットのために足を移動しウィケットに触れてもアウトになる。

LBW(Leg before wicket (Law 36)):バッツマンが足で、投球がウィケットに当たるのを防いだとされる場合にアウトにされる(細かい条件がある)

スタンプト(stumped (Law 39)):ノーボールでない投球に対してホッピングクリースの外でボールを空振り、または見逃し、そのままランを試みぬまま、ウィケットキーパーによって捕球したグラブでウィケットを倒された場合に、ランアウトではなく宣告されるアウト。スピンを打ちに前に出てミスショットした際によく見られる。キーパーの早技が鍵となる瞬間的なプレー。

通常は反則(Law 33・34・37)などは起こりにくいので、ボールド、コウト、ランアウト、スタンプト、LBWがアウトの中心となる。

なお、バッツマンが1点の得点も上げられずにアウトになる事をダック(Duck)と呼び、スコアカードの自身の得点欄にはアヒルのマークが記載され、テレビ中継でもその様に表示される。

ボウリング

ボウリングは肘を曲げずに投球することを指す。クリケットにおいてはバッツマンに向かって投げることを指している。 助走を付けてよく、走り込みながら投げられる。この際、バッツマンに対して1バウンドしても良く、ノーバウンドより打たれにくい1バウンドを利用してバッツマンに投げ込む。このとき、打者から大きく外れ打たれなかった投球はワイド・ボール(Wide ball (Law 25))、肘曲げやオーバーステップなどの違反投球の場合はノー・ボール(No ball (Law 24))といって、投球数にカウントされない。

野球の変化球と同様に、空気抵抗を利用した変化球のほか、ワンバウンドでの投球もあるので、バウンド後の変化を利用する投球もある。

スイング(速い投球が鋭く変化する) インスイング(打者の手元に食い込む、野球のツーシームに近い)

アウトスイング(打者の体から遠ざかる、野球のツーシームに近い)

カット(速めの投球で、バウンドが少し変化する) オフカット(投手の手が内側に向く、野球のスライダーと同じ投げ方、但しバウンド後は逆に変化)

レッグカット(投手の手が外側を向く、野球のシュートと同じ投げ方、但しバウンド後は逆に変化)

スピン(遅い投球で、跳ね上がりが大きく変化する) オフスピン(投手の手が内側に向く、野球のカーブと同じ投げ方で指で回転をかける)

レッグスピン(投手の手の内側を打者に向けて、ドアノブをひねるように投げる)

トップスピン(投手の手の甲を自分に向けて、ドアノブをひねるように投げる)

グーグリー(特殊な変化球その1)

フリッパー(特殊な変化球その2)

また、投球スタイルにより、

ペースボウラー(本格派・速球投手)

スピナー(技巧派・変化球投手)

などの業種分けがなされる。

オーバー

1試合の中で、ボウラーが正規の投球を6球投げたところで1区切りとなる。この6球を1オーバーという。この中には、前述の通りワイド・ボール、ノーボールは含まれない。

オーバー数制限がある場合は打てる球数に実質制限があるため、出来る限りボールを打ちにいく必要がある(ルール上ではノー・ボールは際限なく打てるため、打てる球数は最大で無限になる)。逆にオーバー数制限がない場合はいくらでもボールを見逃すことができる。

休憩

試合中に、一定のオーバーが経過した場合、または時間が経った場合にはドリンクタイム、ティータイム、ランチタイムなどが入り試合を休憩する。

これも試合形式(試合時間)により差異が生じる。

試合の終了

試合は規程のオーバー数またはアウト数により攻守を交代する。 そしてそれぞれバッティングによって得た得点により勝敗を決する。

先攻側が勝利したときは、得たラン数の差で勝敗を表す。たとえば1イニング制の試合で先攻チームが200ラン、後攻チームが190ランだった場合、先攻チームが「10ランで勝利」とされる。これに対し、後攻側が勝利したときは、残ったウィケットの数で表記する。たとえば1イニング制で先攻チームが200ラン獲得しており、後攻チームが逆転して201ランになったときはその場で後攻側の勝利となるが、この反撃中に4回ウィケットを落としていた場合(ウィケットは10本とされるため)後攻チームは「6ウィケットで勝利」とされる。

1イニングの試合(オーバー数制限あり)であれば、先攻チームによる逃げきりか後攻チームによる逆転で試合の終了が決まる。先攻チームは後攻チームをオールアウトにするか規程のオーバー数を使い切る中で得点を上回られなければ勝ちになる。逆に後攻チームは規程のオーバー数の中で、オールアウトにならずに先攻チームの得点を上回れば勝ちとなる。

2イニングの試合(オーバー数制限なし)であれば、そのまま逆転したとしてもゲームを続け、後攻チームのオールアウトをもって攻守を交代し、もう1イニングを行う。この際に、これ以上先攻チームor後攻チームが得点を必要としないと判断した場合はデクリア(Declaration)を宣言することができる。これは2イニング制において試合の時間制限はあれど、オーバー数制限がないために、試合時間以内に試合を終わらせるための手段である(試合が時間以内に終わらなければ、自動的に引き分けとなるが、大会により勝ち点などの細かいルールが規程されていることが多い)。また、同様の理由から、先攻チームが大量リード(100点以上の差など)して1イニング目が終わった際に、後攻チームに再度攻撃をさせる(先攻・後攻が入れ替わる )ことができる。これをフォロー・オン(The follow-on)という。

試合の形式

なお、概略ではクリケット・ワールドカップルールの概要を説明したが、それ以外にもクリケットの国際大会には下記のようなさまざまな試合形式がある。近年、メディアの影響と人々のライフスタイルの変化により、所要時間の短い試合形式が徐々に支持を得てきており、短い時間でも十分楽しむことができるスポーツとなった。

1.ワンデイ・インターナショナル(ODI):ワールドカップ形式で行われる国別対抗戦。50オーバー(300球)限定1イニング制である。試合時間はおよそ5 - 6時間程度となる。

2.テストマッチ:伝統的な国別対抗戦の試合形式。球数無制限の2イニング制を採用、1試合のリミットは無い。最大5日間で勝敗を決する。

3.トゥエンティトゥエンティ (Twenty20):最近登場した短時間で終わる試合形式。20オーバー(120球)限定1イニング制を採用、1試合2時間半程度で終了する。

4.シックス・ア・サイド(6-a-side):6人制クリケット。5オーバー(30球)限定1イニング制で、1試合50分程度で終了する。

試合での服装

2005年に行われた南アフリカとイギリスの試合(テストマッチ)。選手は伝統的な白い制服を着用している。黒いズボンを身に付けているのは審判である。

国際試合とアマチュアの試合では、伝統的な白のユニフォーム(白い襟付きのシャツ、白いズボン、帽子、気温の低いときはベストまたはセーターを着用することもある)に赤のボールを使用し競技を行うが、プロフェッショナルチームのワン・デー・マッチでは、着色されたユニフォームに白のボールを使用する。

近年では、国際試合でも、着色されたユニフォームを着用することもある。白いユニフォームの着用は、スポーツ競技として潔白を表す白色とともに、夏季に開催されるクリケットの試合で、日差しを避ける意味がある。

クリケットを扱った作品

英国連邦とは違い日本では馴染みのない競技であるため、日本のマンガやアニメの題材には使われていないが、講談社は日本とインドの国交樹立60周年となる2012年に、巨人の星の野球をクリケットに置き換えたリメイク版アニメ「ライジング・スター」を放映すると発表した。

サチン・テンドルカールSACHIN TENDULKAR

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個人情報

本名:Sachin Ramesh Tendulkar

生誕:1973年4月24日(38歳)

インド、ムンバイ

愛称:リトルマスター、テンドリャ、 ブラスター、マスタブラスター、リトルチャンピオン

身長:5 ft 5 in (1.65 m)

打撃スタイル:右打ち

投球スタイル:右投げ レッグスピン / 右投げ オフスピン

守備位置:バッツマン

代表情報

代表:インド

初テスト(cap 187)

1989年11月15日 対 パキスタン

最新テスト

2009年12月2日 対 スリランカ

初ODI(cap 74)

1989年12月18日 対 パキスタン

最新ODI

2009年11月8日 対 オーストラリア

ODI背番号:10

所属チーム

年          チーム

1988–present  ムンバイ

2008-present     ムンバイ・インディアンズ (インド・プレミアリーグ)

1992         ヨークシャー

選手成績       試合

テスト        OD1 FC LA

出場試合       162   439 264 523

得点         12,970  17,386 21,859 20,730

打率 54.72 44.80 58.76 45.36

100s/50s 43/54 45/93 70/100 56/109

最高得点 248* 186* 248* 186*

アウト数 3,98 8,020 7,347 10,196

ウィケット数 44 154 69 201

防御率 52.22 44.26 60.72 42.01

1イニング5ウィケット 0 2 0 2

1試合10ウィケット 0 n/a 0 n/a

最優秀投手成績 3/10 5/32 3/10 5/32

捕球/スタンピング 104/– 132/–172/–167/–

出典: CricketArchive - 2009March 31

サチン・ラメシュ・テンドルカール(Sachin Tendulkar、マラーティー語: सचिन रमेश तेंडुलकर 、1973年4月24日 - )は、インドのマハーラーシュトラ州のムンバイ出身のクリケット選手。クリケットの歴史の中で最も偉大なバッツマンの一人であると考えられており、小さな巨匠= リトル・マスター ( Little Master)や マスター・ブラスター ( Master Blaster )などと呼ばれている 。2002年にウィズデン・クリケッターズ・アルマナック(Wisden Cricketers' Almanack)は彼を歴代でドナルド・ブラッドマンに次ぐ2番目に偉大なテストバッツマンであると認定し、ODIバッツマンにおいてもヴィヴ・リチャーズに次ぐ2番目に偉大な選手であると認定した。

また、国内でもパドマ・ビブーシャン賞(Padma Vibhushan)やラジーヴ・ガンディー・ケール・ラトナ賞(Rajiv Gandhi Khel Ratna)を受賞している。スター選手としてインドのスポーツ界を象徴する存在であり、国民的な人気を誇っている。

JR久留里線のタブレット最後の運行

NHK昼のローカルニュースから

久留里線

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久留里線

山間地を走る久留里線のキハ38形

(平山駅 − 上総松丘駅間)

路線総延長:32.2 km

軌間:1067 mm

久留里線(くるりせん)は、千葉県木更津市の木更津駅から君津市の上総亀山駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

概要

かつて気動車王国と呼ばれた房総半島に残る数少ない非電化路線で、千葉県内のJR線では唯一のものである[1]。列車無線が整備されていないため、乗務員との連絡や運転規制の通告は、駅社員を介すか、衛星携帯電話や(業務用)携帯電話にて行われている。

2009年3月14日より全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」に指定されたが、木更津駅をのぞき「Suica」などのIC乗車カードの利用は当面できない(烏山線・鹿島線も同様)。なお、馬来田駅スタートの『うまくたハイキング』開催の折には簡易機が設置された。

路線データ

路線距離(営業キロ):32.2km

軌間:1067mm

駅数:14(起終点駅含む。うち、無人駅10駅) 久留里線所属駅に限定した場合、内房線所属の木更津駅が除外され、13駅となる。

複線区間:なし(全線単線)

電化区間:なし(全線非電化)

閉塞方式:タブレット閉塞式 木更津駅構内をのぞき軌道回路がないため、列車の在線位置の把握にはGPSを利用したシステムを使用している。

交換可能駅:横田駅・久留里駅

最高速度:65km/h

保安装置:ATS-SN

運転指令所:千葉総合指令室(内房指令) 運転取扱駅(駅が信号を制御、運行を管理):木更津駅、横田駅、久留里駅、上総亀山駅

全区間が千葉支社の管轄である。

沿線概況

木更津駅を出発するとすぐに大きく東方にカーブする。しばらくは農地と住宅地が点在する平地を走る。小櫃川に付かず離れずという感じでしばらく路線は続く。東横田駅からは南方にコースを変える。徐々に標高は高くなり、起伏が目立つようになる。久留里駅からは山間地に入り、小櫃川沿いの急な流れや、急な崖などを進み、また上総松丘 - 上総亀山間では当線には2か所しかないトンネルが現れ、終点上総亀山駅に到着する。

運行形態


karataを行う

運転本数は1時間あたり1本ほどで、列車はほとんどが全線を通して運転されているが、一部は木更津駅 - 久留里駅間の区間運転列車がある。日中は2両、朝夕ラッシュ時は3 - 4両で運転される。土日祝日および学校の長期休暇シーズンは、ラッシュ時間帯に減車が行われるが、ハイキングのシーズンの休日は日中でも4両で運転される。3両以上で運転される時は下郡駅 - 上総亀山駅間のホームが短いため進行方向、前寄り2両のみ扉扱いし3両目以降はドアカットされる。このため上総亀山駅では折り返しの際、降車終了後いったんドアを閉め、車両を1両半位前方へ移動し客扱いを再開する。ワンマン運転は行われておらず、車掌が乗務している。

2007年4月には「ちばデスティネーションキャンペーン」の一環として「びゅうコースター風っこ」を使用した臨時普通列車「風っこくるり号」が運転された。

毎年3月中旬に国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)のストライキで運休する。2001年から9年連続で運休している。

使用車両

幕張車両センター木更津派出に所属する気動車が使用されている。当路線はJRグループで唯一キハ30形が使われている路線である。トイレ付きの車両もあり、外観でも判別可能であるが、垂れ流し式の構造で現在も汚物処理装置未設置などの理由で使用不可である。

キハ30形

キハ37形

キハ38形

2012年(平成24年)秋頃より、キハE130形気動車を10両導入し、キハ30形・キハ37形・キハ38形を置き換える予定である。

久留里線で使用される車両。

左はキハ38形

久留里線で使用されるキハ30形

車両側面に貼付された路線のシンボルマーク

歴史

久留里線は、千葉県が道路事情の悪さをカバーするため、県内各地に建設した県営鉄道の一つで、建設当時は軌間762mmの軽便鉄道であった。建設工事は大日本帝国陸軍鉄道連隊によって、訓練の一環として行なわれた。1922年に制定された改正鉄道敷設法別表第48号の予定線に「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」があげられたことから、1923年に国へ無償譲渡され、鉄道省の久留里線となった。1930年には、1067mmへの改軌が完成し、1936年には上総亀山まで延伸されたが、その先へ伸びることはなかった。この延伸区間は、太平洋戦争中の1944年に不要不急線として休止され、戦後の1947年に復活するという経過をたどっている。

戦後は京葉工業地帯の通勤客が増えるが、それでも閑散線区の域を出ない。しかし将来性が認められて国鉄諮問委員会による赤字ローカル線廃止勧告を免れる。

なお、予定線の大原側は、木原線(現在のいすみ鉄道いすみ線)として1930年に開業した。

1912年(大正元年)12月28日:千葉県営鉄道久留里線として木更津駅 - 久留里駅間が開業。清川駅・中川駅・馬来田駅・小櫃駅・久留里駅が開業。

1915年(大正4年)7月1日:中川駅が横田駅に改称。

1921年(大正10年)7月10日:俵田駅が開業

1923年(大正12年)9月1日:国有化され、久留里線になる。清川駅が上総清川駅に改称。

1930年(昭和5年)8月20日:木更津駅 - 久留里駅間の軌間が762mmから1067mmに改軌される。小櫃駅 - 俵田駅間で改キロが実施(-0.1km)。

1936年(昭和11年)3月25日:久留里駅 - 上総亀山駅間 (9.6km) が延伸開業し、久留里線が全通。平山駅・上総松丘駅・上総亀山駅が開業。

1937年(昭和12年)4月20日:東横田駅・下郡駅・上総山本駅が開業。

1944年(昭和19年)12月16日:久留里駅 - 上総亀山駅間が休止。平山駅・上総松丘駅・上総亀山駅が休止。

1947年(昭和22年) 月日不明:上総山本駅が休止。

1月20日:東横田駅・下郡駅が休止[5]。

4月1日:久留里駅 - 上総亀山駅間の営業再開。平山駅・上総松丘駅・上総亀山駅の営業再開。

1956年(昭和31年) 4月1日:下郡駅の営業再開。

7月1日:上総山本駅が廃止。

1958年(昭和33年)4月1日:東横田駅の営業再開。

1961年(昭和36年)3月1日:祇園駅が開業。

1974年(昭和49年)10月1日:久留里駅 - 上総亀山駅間の貨物営業廃止。

1976年(昭和51年)10月1日:木更津駅 - 久留里駅間の貨物営業廃止。

1978年(昭和53年)10月2日:東清川臨時乗降場が開業。

1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が継承。東清川臨時乗降場が駅になる。

2009年(平成21年)3月14日:全線が東京近郊区間に編入される。

2012年(平成24年) 3月17日:ダイヤ改正に合わせ、タブレット閉塞式を特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)に変更予定[6]。

秋頃:キハE130系気動車を導入予定。

駅一覧

全列車普通列車(全駅に停車)

線路(全線単線) … ◇:列車交換可、|:列車交換不可

全駅千葉県内に所在

吉本陸明氏肺炎で今朝2時過ぎ死去

NHK昼のニュースから

この項目は亡くなったばかりの人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。2012年3月15日 (木) 20:39 (UTC)貼付。(表示終了予定:2012年3月22日 (木) 20:39 (UTC))

Wikipedia日本語版

よしもと たかあき(吉本 隆明)

生誕:1924年11月25日

東京市月島

死没:2012年3月16日(87歳)

国籍:日本

出身校:東京工業大学電気化学科

職業:思想家、詩人、評論家

著名な実績

戦後日本の思想における影響力

肩書き

東京工業大学世界文明センター特任教授

子供

長女: ハルノ宵子

次女: よしもとばなな

吉本 隆明(よしもと たかあき、男性、1924年(大正13年)11月25日 - 2012年3月16日)は、日本の思想家、詩人、評論家、東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。日本の言論界を長年リードし、「戦後最大の思想家」と呼ばれている。血液型はA型。「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い(有職読み)。漫画家のハルノ宵子は長女。 作家のよしもとばななは次女。

来歴

1924年 - 1949年

東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工で、貸しボートのような小さな船から、一番大きいのは台湾航路で運送の航海をするような船を作っていた。兄2人姉1人妹1人弟1人の6人兄弟。1937年(12歳)東京府立化学工業学校(現 東京都立科学技術高等学校)入学。1942年(17歳)米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学。1943年から宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎 、仏典等の影響下に本格的な詩作をはじめる。なお吉本は、第二次世界大戦=「総力戦」のもと、最大の動員対象とされ、もっとも死傷者が多く、幼少期は皇国教育が激化し、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかったいわゆる「戦中派」の世代である。

向島の勤労奉仕の後、1945年東京工業大学に進学。在学中に数学者遠山啓と出会っている。敗戦直後、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受けたという。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人をあげている。 1947年9月に東京工業大学電気化学科卒業。

1949年、25歳のとき『ランボー若しくはカール・マルクスの方法についての諸注』を、「詩文化」に執筆。そこでは、「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスの所謂唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。

1950年代

大学卒業後2、3の町工場へ勤めたが、労働組合運動で職場を追われ、1949年、東京工業大学大学院特別研究生の試験に合格し、給与を受けながら東京工業大学無機化学教室にもどり稲村耕雄助教授に就く。 1951年、特別研究生前期を終了後、当時インク会社として最大手の、東洋インキ製造株式会社青砥工場に就職した。

1952年8月、詩集『固有時との対話』を自家版として発行。翌1953年9月、詩集『転位のための十篇』を自家版として発行。『転位-』の第六篇「ちいさな群への挨拶」の一節「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」はよく知られる。この詩集は吉本自身が左翼的な詩と解説するが左翼からは評価が得られず、「荒地」から評価が得られ、吉本は54年から55年頃、荒地に接近するようになった。

1954年2月、「荒地新人賞」を受賞し、また、同人として、鮎川信夫、らが主宰する「荒地詩集」に参加する。同年6月、『現代評論』[8]創刊号と12月発行の第2号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表。「関係の絶対性」という後に有名になる言葉を ここで初めて使う。

1956年、初代全学連委員長の武井昭夫と共同で著した『文学者の戦争責任』で、戦時中の壺井繁治・岡本潤らの行動を批判し、そしてそのことにより、同時に新日本文学会における戦前のプロレタリア文学運動に参加した人物の1950年代当時の行動の是非を厳しく問うた。また吉本は、同年には東洋インキ製造株式会社を労働組合運動により退職した。

1958年には、戦前の共産主義者たちの転向を論じた『転向論』を『現代批評』創刊号に発表。 共産主義者や日本の知識人(インテリゲンチャ)たちの典型には、 峭眦戮紛畭綸要素」と「封建的な要素」が、矛盾したまま複雑に抱合した日本の社会が、「知識」を身に付けるにつけ理に合わぬつまらないものに見えてきて一度離れるが、ある時離れたはずのその日本社会に妥当性を見出し、無残に屈伏する(「二段階転向論」) マルクス主義の体系などにより、はじめから現実社会を必要としない思想でオートマチズムにモデリングする(「非転向」=「転向の一形態」)の二つあると論じた。そして宮本顕治を指導部とする日本共産党は、この内の「非転向」に当たり、その論理は原則的サイクルを空転させ、「日本の封建的劣性 との対決を回避」していると、痛烈に批判した。すなわち、宮本らの戦時中の「非転向」を価値として認めなかった。この主張は戦時中に反戦を貫き、非転向であった共産党員に対して、戦時中の自らの行動と良心の呵責により何も言うことができなかった知識人の風潮の中で、当時斬新であった。 1959年、「マチウ書試論」「転向論」等を載せた『芸術的抵抗と挫折』(未來社刊)を刊行した。

1960年代 - 1970年代

1956年から1960年にかけて、花田清輝とのあいだで激しい論争が展開された。文学者の戦争責任論に端を発し、政治と芸術運動をめぐってなされたその応酬は、最後には吉本の勝利を強く印象づけるような、花田の撤退とともに終結した。磯田光一は『吉本隆明論』(1971.審美社刊)で「私自身にとって、この論争が戦後文学史上もっとも重要な論争のひとつであったという確信は少しも揺るがない。そこでは「責任」「転向」「政治」「思想」というような最も根本的な概念が、2つの個性の激突を通じて、いやおうなしに問い直される光景」と論じている。

1960年1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に発表。また同誌4月号では共産主義者同盟全学連書記長島成郎らと座談会を行うなど、吉本は60年安保を、先鋭に牽引した全学連主流派に積極的に同伴することで通過した。吉本は、6月行動委員会を組織、6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、また、無数の人々が参加した安保反対のデモのなか、6月15日国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。

60年安保直後に、その総括をめぐって全学連主流派が混乱状態に陥った以降は、「自立の思想」を標榜して雑誌「試行」を創刊(61年9月)。この『試行』において吉本は、既成のメディア・ジャーナリズムによらず、ライフワークと目される『言語にとって美とは何か』、『心的現象論』を執筆・連載した。「試行」創刊号の吉本筆の編集後記では「試行はここに、いかなる既成の秩序、文化運動からも自立したところで創刊される。(中略)同人はもちろん、寄稿者も、自己にとってもっとも本質的な、もっとも力をこめた作品を続けるという作業をつづけながら、叙々に結晶するという方策のほかに出発点をもとめないしもとめることにあまり意味を認めない。」とその理念が述べられている。

発行部数500部、60年安保時のブント書記長であった島成郎がスポンサーを見つけ始まった『試行』は、最初谷川雁、村上一郎、吉本隆明三同人により編集[22]、11号以降吉本の単独編集で1997年12月19日付発行の74号終刊まで、紆余曲折を伴いつつ、36年間継続された。70年後半のピーク時には8000部を超えるまで部数を伸張させた。

吉本が主張した「自立の思想」 ―何より国家からの自立を意味する、したがって国家論である「共同幻想論」が構想される― は、「パン」の問題を隠蔽して、あたかも革命的・進歩的であるかのように振舞ういわゆる「知識人」はいかがわしい、と変奏され、その後吉本において一貫して主張されることになる。その代表的なものに、1963年『丸山真男論(増補改稿版)』(一橋新聞部刊)がある。そこにおいては、いわゆる「知識人」のいかがわしさを端的に代表しているのが、丸山眞男に象徴される大学教員に他ならない、とされ、丸山真男からの「ルサンチマン」との応答を含む激しい論戦が展開された。

吉本自身は1956年に東洋インキ製造株式会社を退職後、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で長井・江崎特許事務所に隔日勤務し、1970年に文筆業で完全に生計を立てることを決心するまでこれを続けた。

1962年には安保闘争への総括文書である「擬制の終焉」を発表した。1965年『言語にとって美とはなにか』を勁草書房より刊行。同年には大江健三郎と江藤淳による「完全責任編集」と銘打った当時の新鋭を各巻に配したアンソロジー「われらの文学」という総題の文学全集全22巻が講談社から発行され、その最終巻は「江藤淳・吉本隆明」であった。 吉本の論文が、大手出版社から普及版として刊行されるほど、吉本は潜在的かつ大衆的な影響力を持つ存在とみなされるようになっていた。吉本の文章は、1968年フランス5月革命などと同時代的動きであるカルチャーや政治(全共闘など)を担った若者たちに幅広く読まれた。

1968年『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』を思潮社より刊行。同年10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。著作集は1978年まで継続して刊行された。また同年12月、『共同幻想論』を河出書房新社より刊行した。 1971年『心的現象論序説』を北洋社から刊行。


ボールトに優れ体操

吉本のいわゆる「理論的」書物、『言語にとって美とはなにか』(1965)『共同幻想論』(1968)『心的幻想論序説』(1971)『マス・イメージ論』(1984)といった主著への批判は刊行直後から、そして現在ではさまざまな側面から出揃い、核心的著作は「奪冠」されている、と論ずる評者さえいるが、吉本への「知の巨人」という評価・呼称は、現在でも続き、広く共有されている。

1980年代

1980年代に入ると当時の豊かな消費社会の発生と連動し、テレビや漫画・アニメなどを論じた『マス・イメージ論』や、主に都市論の『ハイ・イメージ論I〜III』を発表。サブカルチャーを評価し、忌野清志郎・坂本龍一・ビートたけしらを評価した。また、『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』『心的現象論序説』など、代表著作が角川文庫から刊行された。「80年代消費社会」のシンボルとなったコピーライター糸井重里とは、対談等も行って親しくなり、現在まで交流が続いている。(糸井は、2008年7月19日に2千人の聴衆を集めた吉本の講演会の協力者となっている)。また、ザ・スターリンというパンクバンドのボーカルであった遠藤ミチロウは、吉本隆明に強い影響を受けており、彼を非常に尊敬している。

このように1980年代当時の消費社会・サブカルチャーの興隆に棹差した流れの中で1984年、女性誌『an・an』誌上に川久保玲のコム・デ・ギャルソンを着て登場。埴谷雄高から「資本主義のぼったくり商品を着ている」と批判を受けるなど、吉本の「転向」が取り沙汰される。吉本は「『進歩』や『左翼』だと思っていたものが、半世紀以上経ってみたら、表看板であるプロレタリアートの解放戦争で、資本主義国におくれをとってしまったことが明瞭になってしまった。この事実を踏まえなければ何もはじまらないというのが『現在』の課題の根底にある」「こういう『現在』の課題を踏まえることは、資本制自体を肯定することとも、資本主義には何も肯定的問題はないということとも全く違う」と応答している。なお同時期、吉本は� ��谷雄高の「スターリン主義的左翼文化理念」と異なるだけで、自らを「左翼」であるとしている。

また、 1981年に中野孝次らが始め、500人の文学者の署名を集め、二千万人の署名運動に発展した反核署名運動を批判。1986年のチェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動も批判、「反核」が「反原発」に、そして「エコロジー」に収斂するのは、「ぞおっとするほど蒙昧だ」とした。(#関わった論争なども参照)

このころから著書も、「思想家」としては異例なほど、多数のものを執筆・刊行するようになる。元々、大学等に属さず「在野の人」であった吉本は、「売文家」としての意識が強い人であったが、だとしても異常な量である。  

1990年代

冷戦構造崩壊後の1994年には、かつての自らの『転向論』を意識した「わが転向」を文藝春秋に発表[32]。小沢一郎の『日本改造計画』を「穏健で妥当なことを言っている」と相対的に高く評価した。そして「社会主義は善で資本主義は悪という言い方は成り立たない」「左翼から右翼になったわけではなく」「体制―反体制」といった意味の左翼性は必要も意味もない」「全く違った条件を持った左翼性が必要」として自らを「新・新左翼」とし、「なにか個別の問題が起ったとき、ケースバイケースで、そのつど、態度を鮮明にすればいい」「そのつどのイエス・ノーが時代を動かす」、と述べた。

また同時期には、現在の社会を、第三次産業が発展し、空気や天然水といった、値段が付かない、と考えられていたものすら、商品として売られる消費社会が成熟した「超資本主義」の段階にはいり、「マルクス経済学が述べている資本主義は、消費過剰になったときに、もう終わってしまって、マルクス経済学が通じない段階になってしまった」とした。そして、日本の一般民衆は中流意識が91%をしめているが、過去の流れから推測して99%になるのは遠くない。そうなると国家社会に特別の要求はなくなり、したがって関心も理想も切実にはいらなくなる。そのとき今の資本主義は終わる。いま先進国の本当の課題は、近代以降命脈を保ってきた民族国家をいつどうやって死なせたらいいのか、ということだ」と述べた。

1995年に起った阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件にかんしては、「日本の切れ目を象徴」し、とくにオウムの無差別テロは「一世紀のうちに、何回も起らない20世紀ではソ連の崩壊に次ぐほどの大事件、ここで戦後民主主義がいかに無力だったかということが誰の目にもあきらかになり、戦後の左翼運動のあらゆるラジカリズムー過激な反体制運動が全部超えられた」[37]としている。

1992年オウム真理教の麻原彰晃をヨーガを中心とした原始仏教修行の内実の記述者として評価していたことから、1995年オウム真理教事件発生後は中沢新一らとともにオウムの擁護者であると批判された。

1996年8月、静岡県田方郡土肥町の屋形海水浴場で遊泳中に溺れ意識不明の重体になり緊急入院したが、集中治療室での手当が功を奏し一命を取り留めた。1990年代後半以降は、どちらかと言うと硬質な文章ではなくエッセイ的なものが多くなる。

1997年には、大塚英志との対談で、『新世紀エヴァンゲリオン』及びそこに見られるいわゆる「セカイ系」について感想を述べる。

1998年、自らの「試行社」から私家版として、入院中に構想を固めた、『アフリカ的段階について 史観の拡張』(試行社, 1998年)を出版。以来吉本は、「今の世界を考えるには、資本主義の「アフリカ的段階」を勘定にいれないといけない」としている。

1999年、50万部売れ、ベストセラーとなった小林よしのりの漫画『戦争論』と1996年発足した「新しい歴史教科書を作る会」に関連して『私の戦争論』という書籍を刊行し、自らの戦争体験を交え、「公」「私」「国家」「特攻隊」、また「ナショナリズムのサブカルチャー化」「ナショナリズムの質的変化」についての自らの考えを述べた。

2000年以降

2001年9月11日アメリカ同時多発テロに関して、2002年『超・戦争論』という書物を刊行し、アメリカ対イスラム原理主義は「近代主義的な迷妄」対「原始的な迷妄」の戦いであり、特に「自由」という観点からいえば「両者とも自由にたいして迷妄である」とし、21世紀の課題は国民「国家を開いていく」ことだと述べた。また「地球規模での贈与経済をかんがえなくてはならない」ともしている。また「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向を指していることは疑念の余地がない。それは断言できる」と述べている。

2003年『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を、『吉本隆明全詩集』で藤村記念歴程賞を受賞した。

2008年には「試行」上で1997年の終刊まで執筆した『心的現象論・本論』が文化科学高等研究院出版局から出版された。

また同年には、『蟹工船』が60万部のベストセラーになったことに関連して、情報技術の興隆、格差社会、ワーキングプアについて論じ、「物事や人間を党派に分けて判断するという感じ方が、全般的に崩れ」たことを評価し、しかし同時に「いいものはいいし、悪いものは悪いという原則もなくなった」「この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、と言われたら、どこにもないよと言うより仕方がない。もし、もっといい方向を探し出そうとするなら、変化の兆候をよく見極めることが重要」と述べた。

また同年に、かっての1980年代の埴谷雄高との消費社会に関する論争をふりかえり、現在を、「消費産業(第三次産業)の担い手である通信・情報担当の科学技術により、(1980年代の)情況判断はさらにわたしの思考力を超えて劇的に展開した」「ことに科学的には少しの思いつきを追ったに過ぎないと思えることが莫大な富の権力にむすびつきうるという事態の怖さを見せつけた」「地域の空間と時間の無境界化に対応したり対抗したりする思考や思想も私たちはもっていない」「情報科学と交通理念は、グローバルな独占支配の手段以外にこれを変更することができない第二の天然自然と化しつつある」と述べた。そして、日本の現状を、「ここ3、4年前から日本国は第二の戦後期(敗戦期)に転化しつつある」「しかも日本国の( 第二の)戦後は完全に戦後を絶たれたと断言してもいい」「戦後も戦中も戦前も、『未来』と一緒に切断された」と述べている。

2009年、第19回宮沢賢治賞受賞。

2012年3月16日、肺炎のため東京都の日本医科大学付属病院で逝去。満87歳没。

思想と評価

吉本は文学からサブカルチャー、政治、社会、宗教(親鸞や新約聖書)など広範な領域を対象に評論・思想活動を行い、多数の著作がある。

1960年代、1970年代、日本で圧倒的な影響力を持っていたことから、戦後思想の巨人とも言われている。実際、海外の著名知識人が来日した際にも吉本は呼ばれることが多く、ミシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、イヴァン・イリイチ、ボードリヤールなどとの対談が出版されている。

アカデミックな経歴を持たない吉本は、自身の著述活動・知的探求を独学で身に着けた知識で支えた。自らを市井の人と位置付け、組織に属さず、「大衆の原像」にこだわると同時にそれを阻害するあらゆる権威を批判した「気風(きっぷ)の良さ」が、吉本が広範に支持を受けた大きな要因と考えられる。また、1945年から1991年の米ソ冷戦期にあって、民族国民国家強化の主張をするいわゆる「ホンネ・ヨゴレシゴト」の保守派と、「平和と民主主義」を語るいわゆる「タテマエ・キレイゴト」の「戦後民主主義」の進歩派がメディアの大枠の議論を二分する状況の中にあって、どちらにも属さず、どちらをも批判する姿勢は幅広い共感を呼んだ。またマルクス主義、スターリン主義の教条主義は否定するが、マルクスその人の影響� �公言するその姿勢は、さまざまに影響を与えた。

ちなみに、原書を読めない吉本は、欧米の学識はすべて翻訳書に頼っている。そうした翻訳による誤解や思い込みをアカデミズムの学識者からしばしば指摘されたが、「「誤読」しか与えないとしたら、まず外国文学者の翻訳の拙さ等を自省すべき」「現在の欧米のめぼしい文学者や哲学者の本が、全部日本語に翻訳されてわれわれの前におかれたら、(外国文学者の存在価値は)ほとんど「無」に帰してしまう。」「しんどい難しい手仕事」を怠る中での「キザな語学自慢」の方が問題だ」、と反論している。

なお1978年フーコーが来日したときには、吉本は蓮實重彦の通訳のもと、対談を行っている。フーコーはそのとき二人で往復書簡を行うことを提案し、吉本は「道元とヘーゲル」に関する論考をフーコーに送ったが、議論は以後生産的に展開されえず、人文知における多言語コミュニケーションの難しさを示すにとどまった。

ちなみに『共同幻想論』は中田平によって1980年代後半フランス語に訳されている。

もっとも、吉本の思想に対して、同世代からも疑問をはさむ声も少なくなかった。小熊英二『<民主>と<愛国>』によれば、、竹内好は、吉本の論じ方は「非常に文学的とか、あるいは詩的発想」だと述べ、鶴見俊輔は、すべてを「全否定」して純粋さを追求する姿勢に「非常に宗教性を感じる」と指摘し、吉本の「擬制」批判は「『すべてのニセモノを倒せ』というスローガンに読み替えられて」「学生の純粋好みを結びついた」と評している。

また、その独特の用語を使用した晦渋な文章は、1960年代後半に学生だった吉田和明によると、「私たちのような並の学生には、とうてい読んでも理解しうるようなナンパな本でもなかった。そして事実解らなかった」と回想されている。やはり当時の大学生だった社会学者の桜井哲夫も、『共同幻想論』について、「わからないのに無理に飛ばし読みをして、理解できるわずかな部分からのみ、この本を理解しているにすぎなかった」と述べている。それにもかかわらず、吉田によれば、当時の大学では、吉本の著作を「胸にだいじそうにかかえて歩く女子学生、男子学生の姿が流行していた」。吉田はその理由として、学生たちは内容が理解できなくとも、そこにこめられたメタ・メッセージを、「詩でもよむかのように」「心の奥 底で感じてしまっていた」からだと述べている。 

歴史的な内容を基盤にした著書は、さまざまな時代の事象や言説を、当時の歴史的事情を考慮せず、超時代的にまとめあげたものが多いとも評されている。人類学者である山口昌男は、『共同幻想論』発表当時、同書中の重要概念「対幻想」について、「それは近代の核家族にのみ通用するものではないか」と批判したが、吉本は「チンピラ人類学者」として罵倒を返したのみであった。

また、批判に対して吉本の側では、過剰なまでに反応して罵倒に至ることもしばしばだった。有名なところでは、戦後最大の文学論争とさえ形容される花田清輝との論争、また、盟友だった作家で評論家の埴谷雄高などとの1980年代の論争では激烈な言葉の応酬が続いた。花田清輝との論争では、感情的な罵倒を取り除けば、純粋に議論内容的には、花田が優位であり、論破したとはいえないとの絓秀実による指摘すらある。

1970年代に谷沢永一との間にかわされた論争では、谷沢の理路整然とした反論に、感情的な言葉を返すのみであり、「吉本の数少ない敗北」とされた。

また、社会的・共同的に何かをしようとする「知的な」ものたちを、論争において、「ファシスト」「スターリニスト」として一括して切り捨てることも多かった。これは、1960-80年代のみならずソ連の解体・冷戦構造崩壊後の1990年代も続いた。小熊英二は、吉本は、1961年には、弱者への罪責感をかきたてることで党への献身をひきだす「『前衛』的なコミュニケーションを拒否して生活実態の方向に自立する」ことを主張し、1960年代中期から、家族と恋愛関係の中にこそ、国家をこえる「私」的な共同性(「対幻想」)を見出し、「生産の高度化がうながした大衆社会の力」「大衆の政治的アパシーの力」を賞賛していくことになった、と論じている[58]。また宮台真司は、「吉本の意図とは全く無関係に生じたこと」だが「大衆か� �遊離した素朴な党派的政治運動を批判する「自立思想」は、全共闘世代が党派的運動や政治運動一般から離脱し、等身大の生活世界に退却していくことを正当化する口実を与え」たと述べている。

また、吉本は、下町で生まれ育ち、そして暮らす「家事をする夫」であり、その面からの「生活者」としての彼を評価する見解もある。

思想家には珍しい理系出身者で、その視点から1980年代は特に、エコロジストや反文明論、疑似科学には批判的であった。ちなみに、現在は情報技術に対し、「科学的にはそれほど難しいもの」ではないのに、富や商売と結合して「科学は単なる機能になりはて、役に立つものだけが有効だ、と考えられる風潮」に「冗談じゃねぇよ」としている。

なお、吉本は1998年の『アフリカ的段階について』の出版以来、現在に至るまで一貫して、「アフリカは文明の未発達な、そこから脱すべき一段階ではなく、むしろ現在のアフリカの中に人間のモラルや宗教や生活の原型がそろっているのではないか」という考えを持っており、「今の(2008年)世界を考えるには、資本主義の「アフリカ的段階」を勘定にいれないといけない」としている。


また2002年の『超戦争論』においては、先のことは分からないとしながらも、「21世紀の半ばくらいには、(・・・)「資本主義はこの先どうするんだ?」という(・・・)課題が、より本格的な形ででてくる」「世界の資本主義の全体的な行き詰まり、全体的な地盤沈下ということが予測される」「世界の資本主義が全体的に地盤沈下するという、その一番の兆候は何かっていえば、それこそ、G7に集う各先進資本主義国が同時多発的に不況に陥ったときである」「近代主義経済学とは違った等価交換のあり方を21世紀には模索しなければいけない」と述べている。

「大衆の原像」について

吉本をカリスマ的に信奉した全共闘世代・団塊の世代である呉智英は、1980年代後半の著作『バカにつける薬』で吉本を批判している。呉は、吉本の重要な思想的基盤である「大衆の原像」の抽象性を批判し、また、吉本が花田清輝ら左翼陣営内の論争で無敵だったのは、彼が「神学者のふりをした神学者」(マルクス主義を信じない左翼)であったせいだ、としている。そして、最終的に吉本が依拠するのが、親鸞の「悪人正機」であるというのは、思想というより、吉本のみにゆるされるアクロバットにすぎない、と論じた。

また、岩井克人や柄谷行人らは、1980年代後半、吉本が「自立思想」の根拠とする「上っつらの言語の世界からはまったく無傷な形で、しかしながら確固とした生活実感をもっている」「大衆の原像」は、1970年代初めまでの高度成長期にほぼ消えたのではなかろうか、と評した。

吉本は、1986年の段階で、確かに「非言語的・非映像的な存在としては」大衆はいなくなった。しかし「大衆の原像」という言葉はフーコーの、「権力関係の限界、権力関係の裏側、権力関係のはねかえりとしてあり、権力の進出から逃れようと反応するようなもの」という「平民(ブレーブ)のようなものー個人やプロレタリアートやブルジョワジーのなかにすらあるもの」の定義と類似したものとして使っている、したがって、「いまもって「大衆の原像」を根拠とすることは、相対的真理としての理念で、ずっと確固としてある」「権力に対峙する根拠」をそこにとろうとすれば、「大衆の原像」にしか反権力、非権力の理念が包括すべきものは存在しない」と応答した。

戦中派としての「戦争体験」について

2002年出版の小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』は、戦後知識人の思想を、その戦争体験の内容から分析し、吉本についてはその影響の大きさから、一章を割いて詳細に論じている。小熊によると吉本は、戦中に理系の大学に進学して徴兵を逃れて生き延びた「罪悪感」と、戦中は「絶対的に『善なるもの』として戦争を鼓舞してきた文化人(吉本が戦中に信奉していた高村光太郎など)たち」が敗戦後に柔軟に意見を変えたことを若年で体験したことによる「権威に対する不信感」から、思想を構築しているとし、彼の世代である「戦中派」(三島由紀夫、橋川文三ら)の特徴を総合したものであると述べている。それゆえ、「論争となると意味なく、過剰に他者を攻撃している」と、同書内でももっとも評価されない思想家として評 している。また、この本についてのインタビューにおいて、フーコーと吉本は同世代だと指摘し、「青年期に国家に裏切られた世代に共通の問題意識がある」とも言っている。

また、柄谷行人からは、花田・吉本論争に関連し、「戦争で死んだ具体的死者を、議論のために、直接的に代理して代弁するな。」と1990年初頭批判されている。

吉本は、『民主と愛国』が出版されて以降、これら疑問に対し、応答し、理系大学への進学は、小学校卒業から工科学校に行っていた吉本にとって自然なコースであり、意図的かつ戦争前線へ行くことの忌避のためのいわゆる「兵役逃れ」の事実はなく、したがって、そこに由来する「罪悪感」はありえない、と述べている。いずれにせよ「皇国少年」「コンプレックスなしの軍国主義者」であり、「戦争やれやれ」と思っていた自分はどのみち戦場に出て行き、そこで死ぬだろうと思っていた、としている。 もっとも、自分の高校時代の同級の多数を含む同世代が軍隊に動員され、多数戦死した中、敗戦後に結果として生き残ったため、「敗戦しても死なずに生きていること」について、生き恥さらした心境だった、とも述べている。

また「僕と同世代でいちばんひどかったのは、兵隊言って前線で戦死してしまった人たちで、そういう人は日本人だけでも、かれこれ100万人単位でいます。(・・・)そうすると、僕らの年代では、どうしても「それを基準に歴史を考えないのは嘘だ」となります。」と述べている。

さらに、「太平洋戦争中に「政府はなってなぇ」とかいったら、たちまち官憲に引っ張られ、軽く見積もっても、2〜3日は留置所に放り込まれました。それは日常茶飯事のことでした。でも今はそういう時代じゃありません。だから、「主張するなら、自分の考えていることを、もっとハッキリと主張しろ、ちゃんと主張しろ」といいたい。」「何いったって、ほかから文句をいわれる筋合いはない」「僕らは、そういうことは戦後の重要な課題であるとして、徹底的に考え抜いてき」た、とも述べている。

また、2002年には、「僕なんかの戦中派は、閉じた思考がいかにダメかってことを太平洋戦争で身をもって知りました」「太平洋戦争中、僕は天皇制軍国主義にいかれていてそのときはあの戦争を肯定していました。そのときは、自分も、「戦争をやれっ、やれっ」っていっていたんです。でも、それは、自分がまさに閉じた考え方をしていたからだってことに、戦後、僕は気づきました。(・・・)その経験がありますから、僕は、自分の考え方をなるべく閉じないで、「開く」というふうにしたい。21世紀の大きな課題は、国民国家、民族国家が、内に対しても、外に対しても、いかに「開いていく」かそして、いかにして戦争をおこさないようにしていくか」だ、と述べている。

オウム真理教評価について

オウム真理教のサリン事件の際、事件後、産経新聞上でのインタビューで、「宗教家としての麻原彰晃は評価する」「麻原のやったことをすべて否定するなら、日本の仏教のなかで存在を許されるのは浄土宗、つまり法然、親鸞系統の教えしかないことになる」[74]と述べ、多くの批判を浴びた[75]。吉本は、「サリン事件は、大衆の原像をおりこむ自らの思想からは根本的に否定」する。しかし、本来超越的な性格を持っている宗教の問題、理念の問題、思想の問題としては、自分の関心がある「悪人正機」の親鸞のなかには「わざと悪いことをしたほうが、浄土にいけることになるんじゃないか」という造悪論を否定できない要素があり、オウム事件は「造悪論」の中に入る。親鸞、あるいは仏教の教義の中には危険な要素がもとも� �あり、「麻原は現存する仏教系の修行者の中で、世界有数の人ではないか?」とした[76]。そのインタビューを行った宗教学者の弓山達也はその後、同じ産経新聞上で、「(吉本は)価値相対主義のニヒリズムを克服して、新たな文化創造を目指したとされる麻原を評価する一方で、社会に対して牙(きば)をむいた犯罪性を厳しく弾劾せざるをえないという二重性をはらんでいた。この二重性に引き裂かれているのが今の吉本氏の状況であり、また既成の社会の抜本的な変革を目指そうとするときに必然的におきる大きな矛盾でもあるのだ。紙面には載せられなかったが、吉本氏は麻原を認める一方で、こんな程度ではまだまだこの社会は突き崩せやしないと語った。そして吉本氏自身、麻原に思想的に打ち克(か)ち、別のやり方で新� �な価値を築いていく自負をも示していた。それがインタビュー最後の「負けられないぜ」の一言に込められていたのである。」と説明を加えている。

もっともオウム真理教は小さい天皇と同じで「生き神様主義だ」とも述べている。

ちなみに、1984年の段階では、中沢新一の『チベットのモーツァルト』に関連して、吉本は、「意識をドラッグによらずに死や瀕死の状態に持ってゆくまでの体術修練や、その過程の各段階で起る擬幻覚現象や意識の離脱体験自体には、精神健康法以外の何の意味もない」「日本浄土教は、仏教浄土門の思想的な集大成として、とっくに親鸞によってそんなの(「チベット密教観相浄土のいかがわしい体術」)完全に否定」されてしまった。「ただ、中沢の手柄は、チベット密教の体術修練の過程で起る意識状態と意識幻覚の過程をかなり厳密に記述したというところにある。」「極楽論」は感心して読んで得るところがおおかった。俺もいつか力を蓄えられたらおなじことを、やってみたい」と述べている。

「現代思想」評価について

社会学者の橋爪大三郎は、『共同幻想論』における構造主義人類学の読み方、特に近親相姦禁止のところに違和感を持ち、25歳の大学院修士課程のころ、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』を一年がかりで翻訳し、吉本に送っている。吉本は『書物の解体学』(1975)でこれを取り上げている。

構造主義、ポスト構造主義、フランクフルト学派の、ドゥルーズ、デリダ、ポール・ド・マン、ハバーマス、ベンヤミン等に関しては、1990年代前半、「スターリン主義の門番、切符売り」「無表情でつまらない哲学研究者」と評している。デリダやドゥルーズに関しては特に「死んだ社会を荘厳にしているだけの思想」としている。そのなかでフーコー『言葉ともの』だけは「読まないほうがモグリ」と評価している。

もっともフーコー、ドゥルーズらに関しても、大塚英志との対談において、「取り上げる問題とか主題に関して、精密すぎる」「そこまで表現すれば、より精密になるかっていったら、そうとはいえないので、0.1以下は四捨五入したほうが正確な値なんだっていうことは有り得る」と疑問を述べている。大塚英志は、吉本との対談のあとがきで「自分や自分と同年代の批評家たちの言説が過度に細部に拘泥し、そしてその細部の上にディベート的というか論理のための論理を組み立ててしまう。その語ることをめぐる隘路」について長いこと考えていて、吉本と対談することは、「だいたいでいい」という水位を思考の領域、言葉の領域にいかに回復するかの糸口を見つけることだったと、述べている。

対談したフェリックス・ガタリには「日本のほんとの思想と体験をわかったふりしてなめて」いる、「てんからの馬鹿」としている。対談したイヴァン・イリイチにたいしては「文明と近代科学を呪詛する気違いじみた魂を持っている。実際会ってみるととうてい話が通じる思想家ではないことがわかるが、その気違いじみた呪詛だけはよくわかる」としている。ボードリヤールに関しては、1998年に「今世界でいちばん重要な問題はイスラム原理主義の問題だということを平気でいいます。日本人の僕などには、冗談じゃないぜ、そんなことは世界のいまの問題と何の関係もないぞと思います」と述べている。

関わった論争など

1981年中野孝次らが発起人となってはじめ、500人以上の文学者の賛同署名を集め、2千万人の署名運動に進展し、翌年には三十五万人が集会に参加した文学者の反核声明を、結局アメリカを「戦争挑発の資本主義国」ソ連を「平和勢力」とすることにしかならない、と反「反核声明」の意思表示した。それに対して批判が巻き起こったが、別に「核戦争」に賛成しているわけではない、反反核声明に反対しているだけである。それを行っただけで自分がすぐに原爆賛成派、戦争肯定派にしたてあげられていく状況は、「誰からも非難や批判を受けなくてすむ正義」を振りかざすものがまかり通る、「社会ファシズム」であり「戦前の日本文学報国会」の裏返しだと応答した。

1986年チェルノブイリ原発事故から盛り上がった反原発運動を、「原発促進派ではありえないが、反原発には反対」とし、「文明史の到達点」としての「原発を否定する左翼、進歩反動たち」は、「文明史にたいする反動的理念」であり、原子力発電所の安全性・地域経済利害・科学技術・文明史の具体的問題を「反核・反原発・エコロジーなどと一緒くたにして、原始的自然に退行して一点に凝縮させると、とんでもない蒙昧が生み出される。」「みんな絶対的に正しいことをのどから手が出るほど欲しがっている」「現在が不安」で、「自分たちが築いた文明を背負うのに疲れている」とした。また1988年忌野清志郎が反原発ソングを歌い、メジャーレコードから発売中止になった件に関しては、「サブカルチャーの領域では、清志� �を反原発などというハレンチをロックにして歌ったりしない、しなやかで鋭い最後のアーティストと思っていた」が「買い被りかな?」、とした。

1980年代の「メディア批評」の時代は、「オールナイトフジ」をいち早く評価するなどして、小林信彦から絶賛された(なお、大塚英志からは「そんな吉本隆明を見るのは痛々しいが、しかし、ある種カワイイ」と揶揄された)。だが、この「見巧者ぶり」は娘たちの影響が大きかったと思われる。

『ロッキング・オン』の渋谷陽一は「僕にとって吉本隆明の影響は巨大であり、吉本隆明が居なければ自分で雑誌を創刊しなかっただろうし、いまのように出版社を経営することもなかっただろう」と2007年に述べている。

中上健次に関しては古典的なスタイルの『枯木灘』(1977)を「日本人の感性のまたその奥にある感性の表現になって」いるともっとも評価し、『地の果て至上のとき』(1983)などは評価しない。とくに死ぬ直前の『異族』(1993)は、アニメの作品によく似ていて、「これはひどい」と述べている。ちなみに中上は角川文庫版『共同幻想論』(1982)に18ページにも及ぶ「解説」を執筆している。 

また、吉本は、1980年代〜90年代、自分を批判した浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と称した。柄谷行人に関しては、1989年時点で、「せっかくブント体験をもってるのに」「最低のブント崩れ」とも評している。ただし2005年になって、「今は、どう動くかを考える段階、考えて具体的なものをだすべき段階」「いつまでもつまらない世代論を論じている場合じゃない。そんなことにはあまり意味がない」として、まだ「若くて政治運動家としての素質もやる気がある」人間として、柄谷行人を唯一、例として名前を出し� �「やってほしいこと、やるべきこと」の注文をつけている。

なお親鸞の「還相」を、吉本は2002年『超戦争論』においては、「視線の問題」である、としている。吉本は、「親鸞が還相ということでいっているのは、物事を現実の側、現在の側から見る視線に加えて、反対の方向からー未来の側からといいましょう、向こうのほうから、こちらを見る視線を併せ持つってことだというふうに僕は考えています。こちらからの視線と、向うからの視線、その両方の視線を行使して初めて、物事が全面的に見えてくるというわけです。」と述べている。

中沢新一は、自身の「芸術人類学」というコンセプトは、吉本が1998年出した「アフリカ的段階」という概念と非常に深い関係があるとしている。中沢は吉本の『最後の親鸞』文庫版(2002)の解説「21紀にむけた思想の砲丸」を書き、また、2008年には吉本と、「『最後の親鸞』からはじまりの宗教へ」という対談を行っている。


1997年、女子高生のブルセラ・援助交際に関わり宮台真司が「朝まで生テレビ」に出演したとき、「正真正銘の馬鹿が出てきた」と述べた。とはいえ、この「馬鹿」は「軽蔑」とか「ほんとにバカ」だと言っているのではなく「隠喩で」あり、「むしろ利口」「吹っ切れている」「ちょっと新しい感性」という意味であり、「援助交際を倫理的に批判する気持ちって全然ない」「どちらかといえば肯定的」「自分の体験上(戦争)の絶対感情の中に全部こういうのは包



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